ある蒸し暑い夏の午後

ときどきポジティブ

優しい鼓動

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粉雪である。何か意外な感じだ。少年はその理由など敢えて探ろうとはしなかったが、直感で答えをすでに導きだしていた。時間の問題、落下の速度の問題である。降雪という現象に対して人の心に宿るイメージ、影像。雪の降る速度についての固定観念。それを微妙に裏切るものが眼前の眺めにはある。眼前であり、また彼を取り巻く呼吸でもある眺め。すなわち、思ったよりも遅い。雪の空中を浮遊する時間が思ったより長いのだろう。思ったより遅い。それは時間の感覚を微妙に稀なものとしている。或いは、彼の鼓動も通常より微妙に遅くなっているかもしれない。雪の落下の何かふんわりした緩慢さ。黙想の気分を醸す音のない緩慢な落下。だからだろう。だから彼女は彼を近くに感じたのだ。彼の鼓動はいま遅いので、彼は彼女の呼吸のそばにいた。彼女の息の届くところに。雪のそばには唇がある。赤いからであり、白い吐息は叙情的だからでもある。ふたりを包むものは何だろう? 雪であり、脈拍である。互いの心拍を数えながら互いの出方を窺う快い苦痛。彼と彼女の場合には、ここに優劣の関係が加わっている。どちらが惚れているのかは明白なのだ。彼女は彼の顔色を窺いながら喋るだろう。彼は彼女ほどには緊張感を覚えていないだろう。彼女は彼の本命ではない。彼女のことは好きだけど、彼女のために自分を曲げるほどではない。だがいま彼は、少し違う場所にいる。違う高さに。鼓動が少し遅いから? 彼女がこう言ったので、彼はこう返したのだ。彼女は言った。「ふたりで雪見るの初めて」。すると彼はこう言った。「見てたら忘れないもんね」。雪の落下の緩慢な中、彼の鼓動を優しいと彼女は少し誤解した。

※ 画像はフリー素材です。

フィクションです。最近寒いので、いっそ雪を出しました。笑