ある蒸し暑い夏の午後

ときどきポジティブ

戒厳令

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「街」は、恐らく次のように定義される。すなわち、研究室であると。天がまた良からぬことを始めたのだ。我々も知らないわけではない。ノームトル・キルケラルサは壮大な人体実験である。太陽と肉体について、月と眼差しについて、人間の反応を観察し然るべき報告書を作成するために実施されている。我々も知らないわけではない。何となく知らない振りをしているだけだ。我々は月を信じている。それがもたらすもの、夜についての固定観念を信じ、その上にあぐらをかくことを自らに許している。あの月は書き割りだろうか? だが、そんなことは言わないのである。例え月が舞台の書き割りのように平面的で、そしていささか大き過ぎるとしても、月光は露骨な事実である。それがもたらすもの、優しい夜のため息を我々は信じている。五百日も陽が昇らなければ、人間は怠け者になる。運動と太陽のあいだにはやはり何らかの関係があったのだ。人々は働くことをやめ、働かない者を非難することも同時にやめた。皆が遊んでいるのだから、それが正しいことなのだろう。草木は枯れ、飲料食糧はどこか外部から秘かに調達された。人々は飲み、食い、そして眠った。いかに体内時計が狂おうと、人間は眠りを必要とする。ある者は二十時間もぶっ通しで眠り、ある者は軽度の不眠症に悩まされた。五百日も陽が昇らなければ? 人間は時間についての新たな感覚を身につける。時の流れをこれまでとは違う尺度で測り始めたのだ。明けない夜の足もとで、人々は永遠を信じ始めた。河面に映る街灯や、暗がりの中で寄り添うカップル、コツコツと足音の響く舗装された道。そういった諸々の要素が夜についての固定観念を裏打ちしている。人々は信じ始めた。永遠を。全て間違っていたけれど、全てが優しかったのだ。夜は我々の期待を裏切らず、見たいと思う姿を見せた。「街」は、恐らく次のように定義される。すなわち、中間の時であると。とわと刹那のあいだの場所を漂う大型船である。行き先は分からない。行き着くところは。
永遠? 人々は信じ始めた。死さえ忘れてしまうほど、夜の終わりが見えないもので。夢と確かに似てはいた。ほのかに白い場所だから、夢の途中で見た場所と。ほの白いのは月の光だ。

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真面目に書きました。でも、閲覧回数は昨日の「第三の処女」に勝てない気がする……