ある蒸し暑い夏の午後

ときどきポジティブ

万事快調

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朝か午前か? 九時半である。彼女は目覚め、混乱し、そして理解し、安堵しただろう。隣の部屋を感じたはずだ。リビングである。リビングから声が漏れ聞こえてくる。それをラジオの音声だと認識するのに要した数秒間がある。テレビではない、ラジオだ。そこへ行くのをためらっていた時間はたぶんもう少し長い。覚悟を決めるのに要した時間。出来たらそこを通らずにずらかりたいと思っただろう。他に外への通路があろうものなら。しかし彼女は覚悟を決めた。ベッドから出てそこへ通ずるドアをひらいた、おずおずと。そうしておれは言ったのである。「起きた?」「はい、あの」彼女は言った。「トイレに行きたいんです」「そこのドアだよ」おれは指で示した。彼女はうんという感じで頷くと足早にそこへ入っていった。彼女が用を足しているあいだ、おれは一つのことを考えていた。あの子はあそこから出てくるためにもう一度覚悟を決める必要があるかもしれないな、と。しかし彼女は意外にも、晴れやかな顔で出てきた。用を足したので晴れやかになったのだろうか。分からない。こちらへやって来た。少しためらう素振りを見せつつも、緊張はしていない。おれはソファにかけて飲んでいた。氷結と緑茶割り。彼女はそばの床に腰をおろした。おれの足もとに。おれは腰をずらして彼女の場所を空けた。彼女はおれの横に座った。そのあいだ、ずっとおれのことを熱心に見つめていた。おれに興味をいだいている。その理由なら察しがついた。そして彼女はこう聞いたのだ。「なんにもしなかったんですね」そう、何もしなかった。何かすべきだったかもしれないが、それをするのはおれのプライドの高さにそぐわない。返事の代わりにおれは言った。「飲み過ぎには気をつけないとね」「うん」「真面目な話、いつもこうとは限らない」「うん。前にあるんだ。その時は」「その時は?」「やられちゃった」「気をつけないと」「うん」まだ十代だろう。微妙にぽっちゃりした可愛い子である。彼女が言った。「ホストさん?」「え?」「仕事」「違うよ。違う」おれは笑った。「ホストに見えたのか」「雰囲気あるよ。オーラというか」「違うよ。違う。何でその歳でホストを知ってるんだ?」彼女はこの問いには答えなかった。「お酒飲んでるの?」「そう」「朝から」「そ」「私も飲んでいい?」「まともな大人なら駄目だと言うよね」「えー」「いいよ」「やった」ラジオの音量をさげた。それが出来るくらいに打ち解けていた。氷結を片手に持ちながら、彼女はおれにこう聞いた。「昨夜のことを全然覚えてないの」「だろうね」「彼女いる?」「ん? 話が飛んだみたいだぞ」「いる?」「いるよ」「そっか」「昨夜の君は道端で吐いていた。それ以前のことはおれも知らない」「✕✕✕だよ」「え?」「私の名前。✕✕✕」「そうか」「吐いてたの?」「うん」「やだな。ゲロ見られた」「そうしておれに絡んだ」「え?」「通りかかったおれに向かって、無視するなと言った。泣いていた。泣きながら言ったんだ」「やだ。恥ずかしい」「だから無視するのはやめたんだ。タクシーに乗せようとした。無事に家に帰れるように。でも君は帰りたくないと言って暴れた」「やだ」そして彼女はまた言った。「✕✕✕だよ」「✕✕✕は家に帰りたくないと言って暴れた。そうして✕✕✕はここにいる。おれはソファで寝るはめになった。まあそんな感じだよ」「そっか」彼女は少し黙った。何か考えているような内省的な眼と顔つきをした。内省的な? 確かにそんなふうに映った。そして彼女はこう言った。「でも良かったな」「え?」「あなたに会えたし」「え?」おれは彼女を見、見つめ返されたので眼を逸らした。まだ子供なのだろう。単純なのだ。十時だった。彼女は昨夜のことを覚えていなかった。では、彼女がおれと出会ったのは? 三十分前のこと。経験は人を慎重にする。慎重さを欠くのはネガティブな発想をしないから。未熟なのは時に強味だ。おれは彼女の眼を逸らすためにこう言った。彼女の意識の向かう方向を変えるために。おれは彼女を甘く見ていたのだろう。こう言ったのだ。「あの時は何で帰りたくなかったんだ?」「あ。ずるい」彼女が言った。即座にそう返したのである。おれは言った。「ずるいよ。大人だからね」

※ 画像はフリー素材です。

フィクション要素も含んでいます。少しだけど。この写真の女の子より、もう少しぽっちゃり……笑