ある蒸し暑い夏の午後

ときどきポジティブ

呼吸の問題

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空があるのは色があるから。他の理由があるだろうか? あるだろう。盲人にとっても空は存在するのである。盲人は空を感じる。空の青みを知らずとも空を感じていると思う。これは呼吸の問題だろう。時空ではない。彼女が敬語を使い始めた。おれに対して何か気に喰わないことがあるのだ。他人行儀を演出し距離感を演出する。彼女の望みはおれが努力すること。彼女の設けた距離だから、彼女次第で取っ払えもする。そうしてほしい? そのためにはまず私の機嫌を取らなければならない。彼女にはロシア人の血が流れている。だが、きわめて日本人的な性格をしていると思う。大っぴらに感情を表現する習慣がないのだ。疎通はさりげなくおこなわれる。なにげない仕草や眼差し、言葉と沈黙、呼吸によって。おれは彼女の意図を汲み、そうしてそれにあらがったりはしない。後ろから抱き締めた。キッチンで、水仕事をしている彼女を。「どこか行こうか」「どこへ?」そう、どこへ行こうというのか。どこでもいいという答えならいま一番してはいけない答えである。おれはしばしのあいだ考え、そして言った。「近くて、二人のことを誰も知らない場所がいい。よそ者になれる場所。つまり」「つまり?」「田舎の食堂」彼女が微笑むのが分かった。「それ悪くない」「おれは食べるものも決めている。かつ丼カレーうどんを食うんだ」「いいね」彼女が水を止めた。水があるのは何故だろう? それを疑わないからだ。彼女がキスを求めてきた。彼女の眼には不思議な色が混じっている。水色と灰色のあいだのような色が虹彩にある。ロシア人の血。彼女に見つめられると、何か見抜かれているような気がすることがある。だが、それは彼女に限ったことではないだろう。女の眼は怖いものだ。彼女の寝息を聞いていた。ベッドで、少し身体を動かしたいなと思いながら。だが、彼女を起こしたくはない。こういう時は時の流れが遅くなる。身体を動かしたいのに動かせないから。時間を感じ、彼女を感じる。眼をつむっても彼女がそこに感じられる。穏やかな寝息や体温やこちらに抱きつくように投げ出された片腕や片足の重みによって。肉体の放つ気配によって。肉体のオーラだ。その時ふいに寝息が止まった。おれは彼女を見た。そして瞼が薄くひらくのを見た。何故だろう? 目覚めた瞬間に人と眼が合うと、人は何故か笑ってしまう。彼女は笑った。おれはほぼ反射的に明らかな既成事実であることを尋ねていた。「起きた?」「もう」と、彼女は言った。「起きてる気配がするんだもん。だから起きちゃった」これは呼吸の問題である。おれの起きてる気配がしたのだ。彼女はおれを感じていた。すなわち、呼吸の問題。眼をつむっていても感じられるもの。おれは笑った。身体を動かした。尻の位置をずらしたのだ。尻の角度を変え、尻と布団の接地面積を変えた。そうしたいとしばらく前から考えていたのだ。いつからだろう? これは呼吸の問題ではない、明らかに。明らかに時間の問題である。

※ 画像はフリー素材です。

フィクション要素も含んでいます。盲人という言葉は差別用語ではないみたいなので使いました。言葉として、視覚障害者より盲人のほうが綺麗だと思う。