ある蒸し暑い夏の午後

ときどきポジティブ

イノセント

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少年の話である。少年の恋の話。少女の話である。春の日の公園で、彼女は鳩を追いかけていた。虫捕り網で捕まえようというのである。夢と似て、輪郭の鮮明でない、滲んだ場所を何と呼ぶのだろう。陽の光に恵まれ過ぎて、全て滲んでしまっている。歓喜のような日溜まりである。鳩を追いかける少女は完全にお誂え向きで、見ていた人はきっとこう感じたことだろう。完璧に近いと。足りないものは恐らく色で、少女の服は白かった。少年は見ていた。十メートルは離れていたが、彼は彼女の髪の匂いを嗅ぐことが出来た。彼女の呼吸をそばに感じた。彼女の呼吸を、彼女を生かす諸々の仕組みを。そして彼はこう考える。彼女はきっと正しいはずだ。美しい人が間違っていたことがあるだろうか、と。その時ある意外なことが起こり、情景を乱すというより、一時停止する。少女が鳩を本当に捕まえたのだ。少年の興味は少女から鳩へとすみやかに移行する。河原鳩(かわらばと)である。どこの公園でも眼にする種。黒灰色、羽根には鱗のような模様があり、首周辺が緑色に色づいている。網の上から、少女が鳩を巧みにつかむ。突っつかれないためにはどこをつかめばいいのか分かっているのだ。彼女は首をつかむ。少年の興味は再び少女へと寄せられる。何かがおかしい。少女の手にしたものがある。それはいきなり現れたという感じで、どこにそれを仕舞っていたのかと考える余裕を与えない。少女は鋏を手にしている。大人の使う先端のナイフのように尖った鋏。少年は見た。紅生姜のような色をした鳩の両脚が切り落とされるのを。血の量は少なかった。骨は抵抗し、少女の指に力がこもった。小枝を折るような音がして、切断されたものが落下した。キャッと小さく声をあげて、少女はそれを避けた。光の中に戦慄がある。少女は鳩を放した。解放されても鳩は虫捕り網の中に絡まっている。呻くようなくぐもった声を喉からさせている。少年は近づいていった。少女は、そして少女は彼を見て、微笑んだ。美しいと彼は感じた。だから思わず微笑んでいた。美しい人が間違っていたことがあるだろうか。彼は腰をかがめ、鳩を網から解放した。本当に解放したのだ。空へ向かって鳩を放った。鳩は平衡感覚を失ったような、何か無様な感じで飛び去った。彼が彼女に眼をやると、彼女が彼をすでに見ていた。見つめていた。ふたりのあいだに通い合うものがある。脚のない鳥は飛び続けるのだろうか? 彼は彼女が欲しかった。

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金曜ですね。よし……