ある蒸し暑い夏の午後

ときどきポジティブ

花影(かえい)論

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彼と彼女の出逢うまで、そのために捧げられた時間がある。彼は或いは美しく、そして彼女はたぶん美しくなかった。彼女は美しいというより可愛かったのだ。最初に眼の合った時、彼女はつかのまの心拍停止を、呼吸の一時停止を経験している。「時が止まったような気がした」彼女はすでに彼を見つけていたのだ。しかし彼女は彼の視界を通過した。繋ぎ止めることが出来なかったのである。彼女は心ひそかに自信を失った。機械の駆動音が彼女の悲劇を紛らわし、人目につかないものにしてくれている。その機械の正式な名称を作者は知らない。役割りも知らない。パンフレットの束を飲み込んで何かする機械である。彼は箱からパンフレットを出して彼女のそばに並べ、彼女はそれを機械の構造の然るべき場所に設置する。そういう仕事だった。駆動音は煩くて、無遠慮。従ってこの場の気分をつかさどっている。何事もなかったのだ。だって機械の音が煩いのだから。二度めに眼の合った時、彼女はそっと眼を伏せた。すでに自信を失くした彼女は、すでに諦めていたのだ。守りに入ってもいた。再び彼を見る時は、さっき感じた痛みを忘れた時だろう。だが彼はそんな彼女をしばらく見ていた。眼が合っていないので、彼女を見ることが出来たのだ。眼を伏せて黙々と作業している彼女の額に陰がある。何故だろう? 彼女のような女には、秘密にしてる愛情がある。秘密にしてる場所がある。彼女はきっと独りではない。きっと自分を明かす度胸を欠いているだけだ。彼は彼女を見ていた。たぶん自分のことも見ていた。三度めに眼の合った時、二人はこの建物の中庭にいた。ある有名な銀行の系列の会社である。蕭洒で、あか抜けていて、遊びがない。中庭には喫煙者の屯する灰皿スタンドと腰かけるための段差のようなものだけがある。彼女はこの段差にかけてジュースを飲んでいた。昼休みである。紙パックの中身をストローで啜る。彼がやって来た。眼が合ったが、すぐに彼女のほうが眼を逸らした。何故だろう、彼が憎らしく思える。彼は彼女のそばに腰をおろした。煙草とライターを持っている。が、彼女のほうを一瞥し、それを作業着のポケットに仕舞った。意識し合う二人のあいだに流れる空気というものがある。切れそうな弦をつまびく緊張感。互いの呼吸を感じつつ何か救いを待っている。この状況に変化をもたらす何かを。その時、彼女は彼の視線を横顔に感じた。耳と目尻のあいだ辺りに。それはかえって彼女の度胸を削いでしまった。彼女は俯いた。自分の殻に閉じ籠ろうとした。彼は彼女を見るのをやめた。怯えているように見えたのだ。或いは彼を拒絶しているように。女性の心理の変化を、作者が巧く描けるとは思えない。彼は立ち去ろうと決意し、伏せていた眼をあげた。すると彼女が彼を見ていた。思わず彼のほうが眼を逸らしそうになった。それくらいはっきりと彼を見つめていたのだ。どういう心境の変化だろう? 分からない。彼女は落ち着いた声音で言った。「大丈夫ですよ、煙草吸っても」「ああ」彼は少し迷い、そして言った。「いや、いいよ」そうして、そう、そして彼は可愛いものを見たのである。彼女が微笑んだのだ。あっさり立場が逆転してしまったような、妙な感じである。彼は彼女を見ていた。自分を見てはいなかった。

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これは自分的には散文詩です。小説的だけど。