ある蒸し暑い夏の午後

ときどきポジティブ

過去のない男

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鳥を見たように思うのだ。彼女は、彼の背中を見ると。いつも黒い衣服に覆われているので、鳥の色も黒かった。雪原の中で見つけた鳥は大抵は茶色いのだが。明確なイメージとなって現れるのではない。鳥の印象、眼の前でふいに飛び立つ大きな黒い鳥の「印象」を彼は呼び覚ます。彼女はそれを眺めながら、自分の願いをみたび知るのだ。彼の記憶が永久に失われますように。だが、そう願うのは負い目だとは知っていた。彼は彼女のフィアンセではない、本当は。記憶が戻ってしまったら、彼は私の前から去るだろう。「理解している振りはするなよ」あたかも口癖のように彼はそう言う。笑って、だが恐らくは真剣にそう言っている。それを聞くたび、彼女は彼を手なずけられないと感じるのだ。彼女のそばにいるけれど、彼女のものになってはくれない。彼女の感じる孤独には、時として自己憐憫の陰が差す。だからだろう。だからこれまで生きてこられたのだ。彼の腕には刺青がある。右の二の腕の肩の辺り、三角筋のところに。ナーダ? ナルダ? どちらでも良い。ハートの絵柄の中央にNARDAという文字が刻まれている。外国人の女の名前。違うかもしれないが、彼女はそうだと確信していた。過去は存在しているのだ。彼女はそれを見るのが嫌で、彼からそっと眼を背けた。いまもそうした。彼が食卓についたところだったのだ。上着を脱いでいた。彼は話をしようとしていた。そして彼はこんな話をした。ずっと後になって、彼女はこの時のことを思い出した。ひとつ覚えていることがある、と彼は言った。子供のころの話だよ。半ズボンなんか履いてたころの。ある一人の女の子が、おれの後をいつもついてきていた。全体に丸い感じの、のろまな感じの子だ。一緒にいるとからかわれるから、おれは冷たくしてたけど、それでも何故かついてくる。おれが怒ると、哀しそうな眼でおれを見るんだ。そして静かについてくる。身体を小さくして、遠慮がちに。ある時おれはその子をからかってやろうと思った。身を隠したんだ。角を曲がってその子の視界から外れた隙に、どこだったか暗いところに身を隠した。そして見ていた。その子が泣きべそをかきながらおれを探しているのを見ていた。彼はそこで話をやめた。続きがあるかと思ったが、話はそれだけだった。彼はシチューを食べ始めた。ビーフシチューだ。彼女の作ったそれを、彼は好んでいたのである。数日が午睡のように流れた。午睡のように? 時計の針を見なかったからだろう。平穏で、からっぽなのに満たされている。雪解けの季節である。外に出ると真水のような匂いがしたが、それは何か眼の覚めることだった。ふたりは同じ景色を眺め、同じ時間を呼吸した。満たされてはいた。時計の針を見たくなかった。彼女は鳥を感じてはいた。眼の前でふいに飛び立つ大きな黒い鳥を感じた。何故だろうと思った。彼はしばしば笑いもしていたのに。彼女と彼の住む家を訪れた者はなかった。だが、彼はいちど街へ飲みに行った。島崎さんが電話で彼を誘ったのだ。彼は近くのガソリンスタンドで島崎さんの車に拾ってもらった。その翌日のことである、電話がかかってきたのは。電話の主はこう言った。「昨日は悪かったと彼に伝えてくれ」島崎さんである。「酔い過ぎた。彼に運転してもらったんだ。おかげで家に帰れたよ。彼は歩いて帰ったはずだ」彼女は一瞬、何を言われたのか分からなかった。そして理解し、そして言った。「彼は運転できません。忘れてるんです、運転の仕方を」「え? できるよ、彼は。しばらく前からだ」彼女は地面が揺らぐのを感じた。

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ドラマチックというか、メロドラマ的な話だと思う。しかしこれはもう散文詩というより掌編小説ですな……