ある蒸し暑い夏の午後

ときどきポジティブ

微香性

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テレパシーである。彼と彼女のあいだには、眼には見えない絆があるのだ。眼に見えず、耳に聞こえず、しかし確かに二人は対話している。どのようにして? 彼女が彼の髪を切り、そうして彼が、彼の意識がそれを全面的に受け入れることによって。恐らくそうだ。恐らくは。理容師と客。二人はいちど寝ているが、いまこの時は理容師と客である。おのおのがおのおのの立場に甘んじている。彼女には旦那がいるからだ。店の外では彼女の幼い娘が何をするでもなくはしゃいでいる。日溜まりがあり、そこに彼女の生活がある。穏やかな日常の景色が。彼は眺めている。眼の前の鏡に映る自分と彼女を。彼女の腰回りは太い。寸胴でくびれを欠いている。一重瞼で、眼鏡をかけている。清潔感のある白のニットとダボダボのパンツ。浮気しそうと揶揄される類いの女ではない。だが彼は知っている。彼女の秘めているものを。熱烈で、そして淫らなものである。鏡の中で二人の眼が合う。彼が言う。「街を歩けば見つかるんだ、偶然ならば。この世は偶然で出来ていますから」彼女が微笑む。隣のスペースで別の客の髪を切っている彼女の妹が、二人のことをちらりと見る。一体何の話をしているのだろう? 床屋には鏡がある。鏡の中で時々眼が合う、彼と彼女の眼が。そのつど二人は互いの思いが同じであることを知るのだ。あの時は偶然が二人に味方した。次の偶然は、あるかな? しかし、彼女は髪を切り終えている。三面鏡を持って来て、彼に確認させる。通常の作業手順だ。「こんな感じで」「うん」「いいですか」「うん」洗髪に移る。彼女に髪を洗ってもらいながら、彼は考える。何故こんなに気持ちいいのだろう、他人の指というものは。そして、そう、髭剃りである。彼女が椅子の背もたれを倒し、彼はそこに身を預ける。彼は半分寝た格好となる。彼女が彼をその格好へと誘導し、そして彼女の眼の前に彼が現れる。あらわになる、と言ってもいい。寝ている時の人間はむき出しだからだ。シェービングクリームと剃刀。彼の髭を剃るために、彼女の指が彼に触れる。彼女は彼の唇に触れる。彼は自分がむき出しとなっていることを知る。こんなの不公平だと思う。だって彼女はむき出しではないのだ。無防備ではない。彼は同時に快感を覚える。他人の前に自分をさらすのは、名状しがたい快感を伴うものだ。彼は瞼を閉じる。そして彼女の息づかいを聞く。そして? そう、そしてその若干の乱れに気づく。彼女の荒い呼吸音。猫の唸りを想わせなくもない。剃刀が彼の肌を撫でて過ぎ去る。無数の髭を連れ去りながら。彼女が彼に剃刀を当て、彼はそれを受け入れている。二人のあいだに通うもの。彼と彼女のあいだを満たす何か濃密なもの。或いは、彼女が彼に膝枕をしていれば、この場面はよりふさわしいものとなるだろう。だが、彼の髭は無限にはない。それが終わってしまった時、二人はともに残念に思った。そして互いがそう思っていることをどちらとも知っていた。彼女が椅子の背もたれを起こす。彼は寝ている状態から座っている状態へとスムーズに移行する。そうして彼は眼をあけた。鏡の中で眼が合った。彼が言った。「おれは運の好いほうだから、いつも偶然願いが叶う」すると彼女はこう言った。「ドラマチックな偶然を、偶然とは呼ばないでしょう?」彼女の妹がちらりと見た。一体何の話をしているのだろう? 会計を済ます時、彼は彼女の娘に眼をやった。表の駐車スペースで赤いボールを蹴飛ばしている。彼女の暮らす場所、彼女の呼吸する世界。だが彼は知っている。彼女の秘めているものを。彼のペニスを求める彼女がどんなだったかを知っている。「じゃ、また」と、彼が言った。「またお願いします」彼女が言った。そして二人は気がついた、同時に。彼女は言い間違えたのだ。いや、間違えていないのか? 正しくはこうだろう。またのお越しをお待ちしております。

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自分の話ではないですよ(笑)全くの虚構です。フィクション。いわゆる官能小説への反感のようなものがあって、それが底流となっている文章だと思う。