ある蒸し暑い夏の午後

ときどきポジティブ

灯台

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眠りの足りない人間を、屋上で見つけた。この街には灯台がある。海も岬もないけれど、それは確かにそこから見える。彼女の髪は荒んでいた。乱れているというより荒んでいるというほうが的確なのだ。狂いかけているようにも見えた。破れかけた心臓を持ち歩く者もいる。だが、彼女のほうがおれよりは正しいだろう。彼女は街を見下ろしながら、見るというより感じていた。街の呼吸を風として、空気中の微かな流れとして感じている。同じものをおれも感じた。明け方の屋上で、これを感じない人などいるのだろうか? おれは言葉を発したが、それは呟きと似ていた。独り言だと思っただろう。こう言ったのだ。「のどにつかえるものがある。そのままにしておきたいね」彼女は少し眼を細くした。風を感じているように。そして言った。「嫌だけど分かるよ」朝日が街の輪郭を暴いていた。嫌だけど明らかに存在している。縦と横と奥行きとがあり、そして主張がある。眠りの足りない人間は、何故か決まって屋上へあがる。何故だろう? 彼女がこちらに顔を向けた。髪が片眼を隠していたが、もうひとつの眼差しがおれを捉えた。何か愉しげである。喜色のようなオーラが見える。オーラの語源はギリシャ語の「微風」だ。彼女が言った。「感傷的になるよね」おれは言った。「憂鬱になるよ」「そう? まあそうね」彼女の髪は荒んでいた。狂いかけているようにも見えた。おれは遠くを指差したが、自分でもどこを指しているのか分からなかった。「知ってる? この街には灯台がある。海も岬もないけれど、それは確かにここから見えるんだ」「そうなんだ」彼女はおれの指した方向を見ていた。こう聞いたりはしなかった。何のためにあるの?とは。おれは彼女を好きになった。

※ 画像はフリー素材です。

かなり個人的な文章です。