ある蒸し暑い夏の午後

ときどきポジティブ

おとぎ話

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何故? つまり彼女は聞きたいことがあるのである。要求は答えである。彼の答えを貰えるまでは要求をする。何故? 背景を為す物語、後ろに広がる光景をもの語るのは野暮に思える。彼女からこの問いが投げかけられたことが重要なのだ。何故、私を置き去りにしたの。お粗末な台詞ではある。だが実際に、こんな台詞を耳にすることは滅多にないのだ。では手短に語ろう。意外にも、それは一つの犯罪の物語である。真夜中の片隅で、闇のひときわ濃い場所でおかされた間違いがある。その時、彼女は彼の声を聞いてはいなかった。刃物を突きつけられる恐怖は想像を超えている。刃先に宿る圧倒的な力というものがある。刃物を突きつけられることは、それ自体紛れもない暴行被害なのだ。彼女は絶句し、文字通り言葉を失い、そうして彼の言葉を聞いてはいなかった。彼の口調がいちいち説いて聞かせるようなものに変わった。「なあ聞けよ。もう一度言うぞ。抵抗さえしなければ、君を傷つけたりしない。分かったか? 理解できたか。財布を出せ。盗るのはいま持っている現金だけだ」彼女は彼の言葉を聞いてはいなかった。病的なほどの震えがその身体に取り憑いてしまっている。そう、何か悪いものに取り憑かれているようだ。眼の色も異様である。まばたき一つせず、眼の前の出刃包丁を見つめている。まるで出刃包丁に夢中になっているようだ。彼が言った。「なあ」その時である。ふたりのあいだに立ち昇ったものがある。獣のように熱と情緒のある、それは匂いだ。つかのま人を黙らす匂い。明らかなアンモニア臭である。彼が彼女を見た。そうして彼は包丁を仕舞ったのである。自分の黒いコートのポケットに。眼の前のものが消えたので、彼女の眼に何か子供じみたものが宿った。彼女が彼を見た、何か不思議そうに。そして彼女は彼がマスクをしていることを知った。立体マスクをしているだけ。眼を隠していない。奥二重で、そしてその眼は優しかった。そう、見えてしまっていた、優しさが。彼女は彼の声を聞いた。初めてそれを聞いたのである。彼女は彼の言葉を聞いた。「悪かったな。家に帰って着替えなよ」そして彼は背中を向けた。彼女は何かを言いたかった。何を言いたいのか分からなかった。黒い背中は闇に紛れて消えた。彼女は彼に置いていかれたような奇妙な感情を味わった。それから数日間、彼のことばかり考えていた。彼の眼なら知っている。彼の声を知っている。再び会えば必ず分かる。その時が来ることを願った。その時である。意外なものは何もない。意外な展開は。その時、彼女はレジを打っていた。地方都市にある二十四時間営業のスーパー、真夜中で客は少なかった。彼女の担当するレジに買い物かごを置いた者がある。かごの中には出来合いの食べ物ばかり。何か言おうとしている。彼女は顔をあげようとしなかった。黙って商品のバーコードを読み取る。飲み屋帰りの男が彼女のことを口説こうとすることがしばしばあるのだ。ホステスを口説き損なったから、彼女レベルの女を口説く。男が言った。「なあ、おれは」そして彼女は彼を見、そして言ったのである。「何故、私を置き去りにしたの」

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甘めの作品です。優しいというか。