ある蒸し暑い夏の午後

ときどきポジティブ

花火

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救急車を自分で呼んだの。でも、間に合わなかった。その人は死んで、今頃たぶん全部なかったことにしている。なかったことに? 彼女はある通り魔殺人の話をしているのである。事件のあった場所を、たったいま通ったのだ。「そう。なかったことに。いやな記憶を忘れたいのは死んだあとでも同じはず。だって、何のいわれもないんだよ。いきなり知らん人から出刃包丁で胸とお腹を刺されたの。痛いし、哀しいと思う。自分で救急車を呼んだなんて哀しいでしょう? しかも死んだし。どんな気持ちで救急車を待っていたことか。私なら忘れたいわ。犯人を呪うより、その記憶を忘れたい」おれは何となくこう言った。「でも、忘れたら奇跡は起こらないだろうな」そして自分の言った言葉についてこう考えた。一体何の話をしてるんだ? だが奇妙なことに、彼女はおれの言葉を理解していた。「うん、そうかもしれない。忘れないから奇跡も起こせる」驚かされるものだ、女性のこういう側面には。そこは、新幹線の高架下である。人がひとり何のいわれもなく殺された場所。陰惨で、そして物語性がある。悲鳴と運命がある。夜を乱したものがあったが、それは悲鳴のほうだった。運命の数は余りに多い。希望の数はたぶんそうでもない。ある日突然知らない奴の刃先が肌をひき裂いた。夜は静かに見ていただけだ。他の夜とも同じ顔色をしていた。今とも同じ顔色を。おれたちはそこから五分の距離にいた。歩いて五分だ。おれたちは歩いていた。「寒いね。当たり前のことを口に出してしまう。寒いのはみんな知ってるのに」すると彼女はこう言った。「寒いね」「主人公にはなりたくないな」「えっ、何?」「殺されたのは可哀想だが、彼女はそれで主人公にもなったと思う」すると彼女はこう言った。「そうだね」そして言った。「おでんが食べたいな」話題を変えたがっている。おれは黙った。彼女のアパートの近くまで来ていた。彼女が言った。「寄っていく?」「噂が立つよ」「そういうこと言わないで」彼女の口調はたしなめるようであり、冗談めかしてはいなかった。だからまた黙ったのだ。アパートの階段の下で、おれは本当に躊躇した。すると彼女は笑っておれの手をつかんだ。ひっ張るような真似をした。ふざけた感じでひっ張ろうとした。しようとしたのだ。花火の音がした。二人とも思わずピタッとなった。ピタッと動きを止めた。どこか遠くで花火を打ち上げた奴がいる。乾いた、それでいて余韻のようなものを心に残す音。残響のある音。耳に届きはしない残響である。同時に顔を見合わせた。そして笑った。いけないだろうか? 彼女を送ってきたわけは、怖いと彼女が言ったため。その人の運命のため。そしていま幸福である。

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フィクションです。ほぼフィクション。