詩的散文
澄んだものがある。稀薄な海と似たものが。彼の波及するもの、彼のつかさどるもの。しかし彼女は(彼の愛するものは)こう考えることで彼から逃れようとする。「彼? あの変質者をそう呼ぶのなら、私もどうかしている」と。実は彼女は詩を書いている。例えば…
彼と彼女の出逢うまで、そのために捧げられた時間がある。彼は或いは美しく、そして彼女はたぶん美しくなかった。彼女は美しいというより可愛かったのだ。最初に眼の合った時、彼女はつかのまの心拍停止を、呼吸の一時停止を経験している。「時が止まったよ…
鳥を見たように思うのだ。彼女は、彼の背中を見ると。いつも黒い衣服に覆われているので、鳥の色も黒かった。雪原の中で見つけた鳥は大抵は茶色いのだが。明確なイメージとなって現れるのではない。鳥の印象、眼の前でふいに飛び立つ大きな黒い鳥の「印象」…
少年の話である。少年の恋の話。少女の話である。春の日の公園で、彼女は鳩を追いかけていた。虫捕り網で捕まえようというのである。夢と似て、輪郭の鮮明でない、滲んだ場所を何と呼ぶのだろう。陽の光に恵まれ過ぎて、全て滲んでしまっている。歓喜のよう…
「まだ見つけてない。自分の描いた絵の中に閉じ込められた人がいる。きっと気が狂うわ」そういう彼女も画家である。具象から抽象に至り着くタイプの画家、物の輪郭でなく印象を画布に刻印する。彼女の言葉を借りるなら、それは「残り香を記憶すること」だ。…
救急車を自分で呼んだの。でも、間に合わなかった。その人は死んで、今頃たぶん全部なかったことにしている。なかったことに? 彼女はある通り魔殺人の話をしているのである。事件のあった場所を、たったいま通ったのだ。「そう。なかったことに。いやな記憶…
死んだのは祖母である。赤い硝子のビー玉をひとつ落として死んだのだ。こと切れた瞬間のこと、ベッドから落ちたものがあり、みなが不思議に思ったという。何も握ってはいなかった。ベッドの上のどこかに紛れていたのだろうか? 彼女の孫が疑われた。小学五年…
すれ違っても出逢ってはいないのだろう。人と人とがすれ違う。接近し、互いの呼吸を感じる位置を一瞬占め、そこでつかのま呼吸する。自分のものとするのには、一瞬過ぎて色々と足りない時間。そして互いを離れていく。接近し、互いを掠め、そして離れる。こ…
いま何時? 午前か午後か真昼と思う。彼女は窓のそばにいた。表の道が、もの凄い感じで死んでいる。二階の窓からそれを見下ろし、そして彼女は、自分の色について考えた。色? 分かっているはずだ。色というほど明確なのは私の場合、思い出だけと。私はすで…
冬の日である。冬の、朝と夜明けのあいだごろ。電話の主がこう言った。夢を見たの。三日続けて同じ夢を。砂漠を泳ぐ魚の夢を三日続けて見るなんて、変でしょう? 私は店をやめようと思います。その日の午後、おれはスーパーにいた。スーパーの食品売り場に。…
眠りの足りない人間を、屋上で見つけた。この街には灯台がある。海も岬もないけれど、それは確かにそこから見える。彼女の髪は荒んでいた。乱れているというより荒んでいるというほうが的確なのだ。狂いかけているようにも見えた。破れかけた心臓を持ち歩く…
「街」は、恐らく次のように定義される。すなわち、研究室であると。天がまた良からぬことを始めたのだ。我々も知らないわけではない。ノームトル・キルケラルサは壮大な人体実験である。太陽と肉体について、月と眼差しについて、人間の反応を観察し然るべ…
赤いはずである。私の夢はめまいのように赤いのだ。少し狂っているからであり、女だからでもある。女だから? むろん彼女はこれには何の根拠もないと自覚していた。この考えには理論的にも統計的にも裏づけがない。彼女と仲のいい処女が言ったのだ。たまに視…
捨てるものなど何もなかった。呪いがあるとするならば、それが恐らくそれなのでしょう。返事を待っています。結婚を申し込んだのに、いまも返事を聞けていません。砂の大地を感じつつ、時計の音を聞いている。あの店から見えるのです。ふたりでパイを食べた…
日溜まりを避けて歩いた。彼女と、そして彼女の思い出は。あの人ならば死んだけど、でもそれはいつのことだろう。輝くものは表面だけのはずである。いつだろう? 彼女には分からなかった。心のように感じやすい敏感な光がある。指先で突っつけばたちまち割れ…
水色で静かだ。崖の上では一台の白い車が燃えている。音もなく淡々と、炎が白いものを包んで、そして使い果たそうとしている。空が使い果たされている。赤い炎が白い車を内包し、そうしてそれは青空と矛盾もせずに、ただそこにある。崖からは海が見え、海は…
粉雪である。何か意外な感じだ。少年はその理由など敢えて探ろうとはしなかったが、直感で答えをすでに導きだしていた。時間の問題、落下の速度の問題である。降雪という現象に対して人の心に宿るイメージ、影像。雪の降る速度についての固定観念。それを微…
全て所定の位置にある。街もテレビも太陽も。このテレビはゴミであり、ゴミ捨て場に置かれているがそれも半年前からだ。持ち主は死んだと思う。理由はないが彼女はなぜかそう考えている。持ち主が死んだから、テレビは外で暮らしてるのだ。ここにあるのはゴ…
海は青くて空と似ていた。空と同じで光の帯が住んでいる。風と一緒にそよぐ光が。光がそよぐ。それは奇妙なことだけど、でもたぶん、そうでもないと言う人もある。科学的に奇妙なことは、大体素敵ですからね。景色は澄んで、そして見事に澄んでいる。海と浜…
声の感じがざらざらしてる。牙を向く猫の唸りと似てないこともない。大人の男にふさわしい落ち着いた低音の声音ではある。だがノイズのようなものがしばしば、予感のように閃くのです。ほのめくようにたち現れる。声の上澄み、声の浅瀬に浮かんで見える、感…
その女なら知っている。彼女の瞳は青いので、静かに燃える月のようです。気高いものを見るのには最も適してない場所で、最善を尽くそうといつも努めて暮らしてる。自分に対し最善を尽くそうと。諦めるには色々と備わり過ぎているのでしょう。青いのはドレス…
彼女といると愉しかった。風には少し甘味があると真顔で言った彼女のことを、子供のように純白と感じたこともありました。不思議なことに思えたものです。彼女は夜と契っていたから、闇の足りないわけではなかった。でもたぶん、不思議でもないことでした。…
星が光を取り戻した。正しいことに思えたものだ。それは静かに始まったこと。次の秩序の始まりだとは誰も思わず、ただ誰しもがこう感じてた。夜の長さが変わったらしい、と。人類は時計の針を真に受け過ぎていたのです。未来はすでに今だとは、人はなかなか…
SNS的な、それは赤いポストである。前世紀の遺物のようなしろもの。何がSNS的だというのだろう。人と人とを繋ぐものだから? 交信手段、コミュニケーションの幅をひろげるために人間の創出したもの。或いは言葉の、すなわち意味の堆積としての赤いポス…
未来のために生きてはいない。運命と似た選択もあり、負い目の数を増やしつつ自分に出来ることだけをする。他人の真似をしてもいいけど、苦行のあとに残るのはやけに白髪の増えた人。残忍な時計ばかりが正しかったと知るでしょう。実に多くの人間が、自分の…
調子の狂う愛でした。調子の狂う? 赤い夕陽のさす部屋だから、全て少しは狂っていたと思われます。リビングとバスルームがあり、窓とベッドがありました。シングルだけどダブルの役を担わされてるベッドです。シーツの染みが表すものを、或いは人は嫌悪もし…
雪の静かに降る夜に、公園のベンチで死んだ人もある。不幸とは限らないけど切ないなとは思います。その人はきっと眠ればもう一度目覚めることはないと知ってた。最後に見たもの、聞いたもの。出来ることなら音楽を、息をひき取るその時を音楽で優しくしたい…
なぜか橋が浮かぶ。橙色のライトの照らす夜の鉄橋。いつ見たものか定かではない。夜を駆けると橋と出くわす。記憶とも似たイメージが頭の隅にあるのです。人かげのない鉄橋は無人の都市を想わせるけど、心細さを醸し出すのはそれが巨大な沈黙だから。眠りと…
路地裏の住人であった時代を懐かしむことがある。カタコトの日本語を喋るユキとかユリとかサユリとかいう源氏名の女たちが、おれを大人にしたのです。性的に解放された環境下では愛と欲望を混同したりしない。愛には価値があることを、おれは恐らくそこで学…
透き通るような冬の日を、忘れないため眼を瞑ります。視覚情報による記憶は、匂いを殺してしまいがちですから。匂いと、呼吸。別々のものでありながら、あたかも一つのシステムであるかのように溶け合うもの。瞼の裏では光の余韻が明滅と似た運動をする。さ…